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新聞の連載コラムをまとめたもの。
タイトルにあるように60のテーマについて書かれているので、美術・デザインハンドブックとして使えるかな。 黄金分割と対数螺旋についてはちょっと研究の必要あり。
ほこほこと暖かいお話でした。
なにより、 行動や習慣はきちんとした形を作ること 心は風流であること=ものごとにとらわれずに風になびくようにやわらかくあること =前もって決めめないで、状況に応じてそのつど対応すること が説かれていたように思います。
HP運営の参考になればと・・・。
タイトルからちょっと期待をしすぎたみたい。 別に損したわけではないけれども、当たり前のことが当たり前に書いてあった。 いわく、 何のためのHPなのか? 成果(目標)はなにか? 問題点は何処にあるのか(WEBなのか、商品なのか、広告なのか、組織なのか) CEO対策にあまりエネルギーと時間を掛けるな。 SNSは井戸端会議 メールマガジンはこれから復活する。 そう、この本をamazonで注文したのも、もともとはメールマガジン。 メールマガジンは広告としてとての費用対効果が高いと前から思っている。 でも、個人商店でやれるものではなし、とりあえずはブログがな、やはり・・・。
子ども達がいろいろ漫画を買うので、お父さん子ども達の本棚を物色します。
そのここ数年の中でピカイチの漫画はこれだ! http://shingeki.net/ 設定は荒唐無稽だし、絵はデッサンが狂いまくっているし、ぱっと見「なんじゃこりゃ」てな印象だったが、この漫画は凄い! 現在7巻まで来たけど、相変わらず大元の設定が分からない、キャラデザインされている登場人物が次々と虫けらのように死んでいく、状況はどんどん悪化する一方・・・・(続く) で、この漫画がいままでの漫画と違う構造を持っているということに思いいたりました。 いつまでたっても大元の設定が分からない。そもそもストーリー自体がその設定の謎解きになっている。 うーん、もう少しだけ考察してみる。 主人公をはじめ、登場人物全体が、「この世界はどういう風に成り立っているのか」についてなんの情報も持っていない。人類滅亡に向かって加速度がついているストーリに乗せて、存在の根本的諸問題「我々は何処から来たのか」「我々は何者なのか」「我々は何処に行くのか」などなど、登場人物が少しづつ認識を深める。 でも、これって、現実の僕達とまったく一緒ではないですか? 僕達だって、世界がどういう仕組みで成り立っているか、実は全然分かっていない。科学?自然科学は、まさにそういう世界認識の積み重ね。 あるいは、陰謀史観の方々に言わせれば、RやらRやらJやらが、この世界を支配していることになっているけど、それは<いま、ここの>ゲームのルールを支配しているだけで、別に世界を支配しているわけでは全く無い。 この漫画、ここまできて自体が悪化するばかりで、全然前に進まない。この後いったいどうするんだ?という心配。
高階秀爾の「20世紀美術」が書かれた後の1990年~2008年までの現代美術の現状をのギャラリストとして報告。
この本を読んだ限りでは、この間の美術の動き自体についてそれほど興味を持てない。村上隆やら草間弥生など日本人のビッグネームの活躍もあるが、今・現在のコンテンポラリーアートの動き、というのは、「美術手帖」の世界であって、僕自身にとっては、それはいまいいか、という気がしている。 この本は、9.11後の美術の可能性について書かれているが、我々はいま、リーマンショック後の、そしてなにより3.11後の現在に生きていて、そこでの美術の可能性はもちろん、バブリーなアートマーケットの様相自体一変しているだろうと思う。 この本の最終章にあるこれからのパブリック・アートのあり方(地域再生の社会的ツールに!)や、アーティストに対する判断基準:①将来的な広がり、②美術史の流れや自分が依って立つ社会への問題意識、③自分自身の社会的な立ち位置、アイデンティティに対する深い眼差し等々、著者は本のタイトルとはずいぶんイメージの違う広い視野をもったギャラリストであることが喜ばしい。 ヒントもたくさんだし。
さすが高階秀爾である。僕達の学生時代のスターの一人。
でも、当時、美学・美術史学に席を置いておきながら、あまり読んではいなかった。 自分でも思いがけず、この歳になって造形美術に手を出してしまい、いくらなんでも現代美術史を知らずには制作はできないことになってしまった。って今頃になってそんな基本的なところを確認しなければならない、というのは、ほとんど経歴詐称みたいなもんだな。 しかし、たがだか260ページほどの小著でよくぞここまで手際よく100年間をまとめられるもんですな。一流の学者というものはたいしたものです、はい。 現代美術の袋小路というのは、現代音楽の袋小路とあたりまえだがシンクロしていて、現代社会でのリアルな音を求めた結果の調性の破壊が現代音楽を開くと同時に音楽を社会から遊離したものにし、その後音楽はその全体性を取り戻せないでいるのと同様に、写実の徹底化が写実の不可能性(高階氏は、オブジェとイマージュというキーワードでこの100年の美術史を読み解く)と細分化と先鋭化をもたらした。 そんな現代美術が人類にとって何ほどかの意味を持っているかどうかは、不明だけれども、アートバブルと呼ばれるようにアート市場は活性化している。 デュシャンのいうように、美術が再び甦るのは、50年後か100年後か分からないけども、まあ、新しいものを作らないとしょうがないもんね。というわけで、美術史という大きな流れと同時に個々の作家の芸術論が重要だろうと思う。
美術史を引き返すことのできないところまで解体したデュシャン。
僕にとっては、学生時代傾倒したジョン・ケージや、ダダとの関連で若い頃から近くにいたような気がする。ただ、デュシャンその人、あるいは作品そのものについて特別に勉強したことは無い。 ピエール・カバンヌによるインタビューで、デュシャンは、知的に、ユーモラスに、そしてなにより静かに語っている。その語り口は、ジョン・ケージととても似ている(ってデュシャンの方が年上だな)。 でも、じゃあ、デュシャン自身はなにがしたかったのか、ということについてはよくわからない。印象派を最初のスタートとして、20世紀初頭に美術が不可能性に向かっていく、その一番の激動の時代の文脈の中で行った活動が、気がついたらその先頭に立っていた、というところだろうか。 知的な軽やかな語り口も、実は矛盾だらけだ。「存在」という概念、「芸術」という概念を全否定しているかと思えば、逆に重要な概念として使用されていたりもする。 まあ、デュシャン後の美術のあり方同様、本人も相当やっかい。 私たちのような時代―四、五百年もずっと制作されてきた後で、油絵がひとつのジャンルとして永遠性を持ついかなる理由もなく、それを続けることもできない―そういう時代に対するとてもよい解決策だと思います。そうして、表現するためのほかの定式を見出すことが出来れば、それを利用すべきでしょう。 (中略) ―画架の上のタブローは死んだ、とお考えですか? 当面のところ、そしてこの50年、100年のあいだは、死んでいます。それが甦ることがなければ、ですが。でもどうしてなのかわかりません。理由などないのです。芸術家に、新しい方法、新しい色、新しい照明が与えられています。絵画のうちにも、現代の世界が導入され、それが押し付けられているのです。それは、物事が自然の上でも、道徳の上でも変わるように強いています。 「美術を解体したのは時代の必然であって、俺ではない。未来のこともそんなことはオラ知らね」と読めるのだけれども、どうなのかな? 美術史のレディメイド以降、そして日本社会の3.11以降、前提が解体された中で、なにが可能でなにが不可能なのか。道標が無責任なので(ってデュシャンは責任のとりようがないが)、手探りで進むしかないですね。
内田樹、そしてこのテーマである。
しかし、軽い。こんなに軽くていいの? 文章でもおしゃべりでも、不思議なほどにストンと腑に落ちる内田樹であるが、この本はちょっとそういう感想。 先日沖縄タイムスに掲載された「原発と沖縄の米軍基地」に関するロングインタビューが、素晴らしい出来だったので、よけいにそう思う。 ただ、鎮魂、祈り、瞑想、そして「怒らないこと」。 これについてはしばらく僕自身のテーマでもあるな。 僕自身のテーマと言えば、「やましさ」「後ろめたさ」もあるのだけれでも。それとも関連するのだろう。ああ、しんどい。
先月読んだ「ハイデガー=存在神秘の哲学」に比べ圧倒的に面白かった。
とはいえ、理解するには、もう一度最初から読み返さないと・・・。 「存在了解」「世界内存在」「内在性」「時間の脱自態」等々のハイデガーの術後について少し見取り図が頭にできたかな、というくらい。(しかし「存在の企投」という言葉のイメージがつかめない!) というのも、先駆的覚悟性というのは、究極の可能性である自己の氏にまで先駆けてそれに覚悟をさだめることによって真の自己に到来することだが、それはあったがままの自己に立ちかえり、それを引き受けなおすことであり、そのようにして能動的に自己の置かれている状況を現前せしめ、それに直面することでもあるからである。 (p69) キルケゴールの言うように、可能性と必然性とに引き裂かれ、現在を生きながら生来と既在をも共に生きている人間に特有な存在の仕方、しかも、いつくるか分からないが確実にやってくるおのれの死に覚悟をさだめつつ生来と既在と現在とを緊張した統一性のうちに生きるその存在の仕方に、時間の根源的現象を認め、、そこから非本来的に時間性を、さらに配慮された時間、世界時間を、そして近代物理学によって構成された「等質的な今の無限な継起」という通俗的時間概念を、次々にその派生態として導出してみせるハイデガー(後略。75p) というふうに抜書きノートを作っていけば、かなりのところまで理解を整理できるとはおもうのであるが、その暇はなし。 「存在と時間」そのものに手を出すのは、もう少し、周辺の勉強をしてからにしようと思うが、「なにかが存在するとはなんと不思議なことだろう」「世界が存在するとはなんと不思議なことだろう」(ヴィトゲンシュタイン)という存在の不思議を中心にして、「存在と時間」を読むための哲学の勉強をちょっと真面目にしようかな、と思う。
松岡セイゴオ先生の本は、いつも刺激でいっぱいである。
博覧強記というものは、こんなに楽しいものか、と思う。 しかし、こちらはセイゴオ先生の書いていることの「知」と「教養」の背景をちっとも共有出来ていないものだから、いつもおいてけぼりの寂しさも同時に味わはなければならない。 ダ・ヴィンチ、ジャコメッティ、デュシャンを入り口に、 いやその前のプロローグとして、西條八十の「唄を忘れたカナリヤ」から(明治時代の)童話童謡雑誌「赤い鳥」の話になり、三木露風、小川未明、菊池寛、泉鏡花、北原白秋等々の錚錚たる名前が並び、「日本流」というテーマが、「多様で一途な国」「職人とネットワーカー」「仕組みと趣向がはずむ」「見立てとアナロジー」「おもかげの国・うつろいの国」「わび・さび・あはせ」「間と型から流れてくる」という風に展開される。 解説の田中優子に従って言い換えれば、 「仕組みと趣向」「筋と事」「軸組と造作」「ウツとウツロイ」「真名と仮名」「東と西」「ミヤビとヒナビ」「託すということ」「見立て」「尽くし」「依りまし」「ケガレの重要性」、そして「座布団にやってくるマレビト」に至るまで、まさに多様な日本流が次々と出現してくる(p365) 松岡は、「日傘や提燈や下駄を残そうというのなら、そこには職人の数、そのモノを使う場面の多さ、そのモノをいきいきとさせる意匠のセンス、そうしたもろもろのアソシエーションが一緒になって走るべきなのです」と書く。この、いくつものことが組み合わせながら一緒に走る、ということに注目したい(p366)。 とこちらもさすがに田中優子先生の解説は素晴らしく、丸ごとここに転載するのが一番だと思うが、まあ、それはそれとして、この国で工芸家を名乗るものにとっては必読書かな。 しかし、永井荷風かぁ・・・下駄を履いて遊びに行こう。
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