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でも、この商取引モードで教育活動を行うということになると、教育は「子供にでもその有用性や価値が分かるもの」を目標に掲げる以外になくなります。当然ですね。「消費者にはその有用性や価値がわからないもの」は商品としての条件を満たしていませんから、市場に陳列されることがない。市場原理を学校に導入すれば、「子供にでもその価値がわかるもの」しか教育プログラムには採択されません。6歳児にもその価値がわかるのは、権力と金銭と社会的威信程度でしょう。そういうものを持っていると「いいこと」があるらしいというのは小学生でもわかる。それ以上のことは大人にならないとわからない。大人にならないとわからないことは子供にはわからない。だから「大人にならないとわからないこと」は学校教育のプログラムから組織的に排除される。
教育を市場の言葉で語ることの致命的なピットフォールはここにあります。市場では消費者は「何に価値があるのか、何が有用であるのか」についてすでに熟知しているということが前提になっています。「マーケットは間違えない」というビジネスマンが大好きな言葉はその消息を伝えています。でも、子供たちが「教育において価値があること、有用なことについて、学ぶに先立ってすべてを知っている」という前提を採用したら、もう教育は成り立ちません。子供たちのその幼い価値観、そのしけた「ものさし」で考慮できる以外のものは端的に「存在しないもの」とみなされる。子供たちは永遠の幼児性のうちにとどまり、六歳児の価値観を死ぬまで持ち続けることを強要される。「学ぶこと」を禁止されるのです。学びを市場の言葉で語るものは、子供たちが幼児性から離脱し、成熟の歴程を歩むことを制度的に禁止しているのです。そのことにもう少し恐怖を感じでよいのではないかと僕は思います。 学びというのは自分の手持ちの価値観ではその価値を考慮できぬもののうちに踏み入ることです。具体的な知識や技術を学ぶことではなくて、「自分にはそれが何を意味するかわからないもの」に敬意と好奇心を以て接近する作法を学ぶことです。「学ぶ」というのは「学び方を学ぶ」ことです。 「日本霊性論 p78-p79 内田樹・釈徹宗著 NHK出版新書」 より抜き書き
by morimoribook
| 2014-10-27 20:39
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